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「残業規制で所得8.5兆円減=生産性向上が不可欠」の真の意味

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はじめに

 厚生労働省の過労死認定基準によると、おおむね45時間を超えて時間外労働が長くなるほど、業務と発症との関連性が徐々に強まるとされています。したがって、月60時間の残業でも過労死に至ることが十分に考えられます。

 では、時間外労働が月60時間を超える労働者の60時間超の部分を足し合わせると、全体でどれくらいになるでしょうか?

 大和総研がそれを試算しました。

 大和総研は、政府が進める残業時間の総量規制(月平均で60時間)によって、残業代が最大で年8兆5000億円減少すると試算した。

 試算によると、1人当たりの残業時間を月60時間に抑えると、労働者全体では月3億8454万時間の残業が減る。年間の残業代に換算すると8兆5000億円に相当する。

(参照元:『時事ドットコムニュース』) 

 つまり、日本国中の労働者の残業時間60時間超の部分を足し合わせると、ひと月当たり3億8454万時間になります。単位を年に換算すれば約4万4千年に相当し、現在からこの年数を遡ると旧石器時代になります。

このニュースの真の意味

 このニュースの真の意味は、生産性があまり期待できないのに、年間8兆5000億円もの莫大な残業代を、使用者が払い続けてきたということです。財務省によると、平成28年度一般会計予算は、約96.7兆円でした。8兆5000億円は国家予算の約9%に匹敵する恐るべき数字ですが、ほぼ無駄金です。

 その理由には次の2つがあります。

  1. 年間総労働時間と生産性との間には負の相関があること
  2. ホワイトカラー職種においては、労働時間と創出付加価値とが一致しないこと

 以下、それぞれについて考えます。

負の相関について

 小野(2016)によると、労働者一人当たりの年間総労働時間と時間当たりの労働生産性とは負の相関があることがわかっています。これは、OECD各国の生産性(時間当たりGDP)と労働者1人当たりの年間総労働時間との相関から明らかになったものです。政府は、これを詳細に分析し、1人当たりの労働時間が10%短くなると、1時間当たりの労働生産性は25%高まると今年度の経済財政白書において結論付けています。

 残業時間を月平均60時間以下に上限規制をかけるということは、月60時間を超えて残業している人の労働時間を、他に分散することを意味します。

具体的に計算してみる

 月所定労働時間が160時間のもとで働くAさんを想定します。ここで、月84時間残業していたころのAさんの労働生産性を1とします。すると、Aさんは、月間(160+84=)244の付加価値を生み出していたことになります。

 次に、Aさんの労働時間を10%短縮したと仮定します。このとき、Aさんの残業時間は月59.6時間になります。一方、Aさんの労働生産性は25%上昇し、1.25になります。

 したがって、Aさんの月間創出付加価値は、219.6×1.25=274.5となります。84時間残業していたころより、30.5も付加価値が増大していることになります。すなわち、ダラダラ残業するよりも、残業を程々にしてサッと切り上げた方が、付加価値が増大するのです。つまり、企業がAさんに支払っていた(84-59.6=)24.4時間分の残業代は無駄金だったのです。

脱時間給について

 上記のことは、労働時間に応じて付加価値を生み出すことのできるブルーカラーや定型業務に就く人たちに関する話です。こういう人たちに対しては、労働時間をきっちりと管理して、長時間労働に至らないように業務を分散すれば、結果としてトータルで見た付加価値が増大します。では、必ずしも創出付加価値が労働時間に応じて決定付けられないホワイトカラーについてはどうでしょうか。

 例えば、ホワイトカラーの労働者A、Bを考えます。ここで、A、Bともに時間給ベースで賃金が支払われ、賃金単価も同じと仮定します。

 Aは月60時間残業した結果、300の付加価値を創出したとします。一方、Bは月84時間残業た結果、同じく300の付加価値を創出したとします。この場合、Bに対してAより多く支払った24時間分の残業代は無駄金です。

 労働時間と成果とが連動しないホワイトカラーに対し、時間給ベースで賃金を決定すると、創出付加価値が同じでも、理論上は残業60時間、70時間、80時間あるいはそれ以上と残業時間に応じて残業代が支払われてしまいます。ホワイトカラーに対しては、創出付加価値すなわち成果に応じて賃金が支払われないと、上記のような不合理が生じてしまうのです。

もう一つの隠れた効果:年齢と生産性との関係

 日本企業の多くは、年功序列賃金制という賃金制度を導入しています。年功序列賃金制のもとでは、若年層の賃金を生産性より低く設定し、逆に、中高年層の賃金を生産性よりも高く設定しています。したがって、時間外労働の上限規制によって抑制される所得の大部分は、中高年のものと思われます。

 年功序列賃金制では、現在の中高年の過払い賃金の原資を現在の若年労働者の生産性と賃金との差分から引き出しています。時間外労働の上限規制によって中高年のダラダラ残業を未然に防止することができれば、若年層から原資を調達することから解放され、結果として、若年層の低賃金長時間過密労働を防止することができます。

既得権者による都合の良い解釈

 時事通信の記事には、次のような記述が見られます。

 大和総研は、政府が掲げる働き方改革で国民の所得が大きく減る可能性があるとの試算をまとめた。個人消費の逆風となりかねないだけに、賃金上昇につながる労働生産性の向上が不可欠となりそうだ。

(参照元:『時事ドットコムニュース』)

 赤色で示した部分は誤った解釈ですね。時間外労働の上限規制によって、平均月60時間超の残業をしていた人たちの所得が減る可能性は確かにあります。しかし、それ以外の人は関係ありません。したがって、「国民の所得が…」を「一部の国民の所得が…」と表記すべきです。個人消費についても、平均月60時間超の残業をしていた人たちの個人消費が減る可能性は確かにあります。しかし、それ以外の人たちの個人消費は逆に増える可能性があります。理由は先ほど述べた通りです。

 この試算をまとめたシンクタンクの調査員やこの記事の編集権を持つデスクが、年功序列賃金制によって手厚く保護され、平均月60時間超の残業をしているだけの話ではないでしょうか。

旧態依然の働き方をしていると世界の荒波に呑まれてしまう

 ホワイトカラーに対して時間給ベースで賃金を決定し、かつ、年功序列賃金という特異な賃金形態を採用している国は日本しかありません。年功序列賃金は、高度経済成長期という過去の成功体験に基づいて形成された賃金形態です。当時は、経済が成長し、かつ、生産年齢人口比率が上昇基調という前提条件が成立していたため、このような賃金形態が有利に作用しました。しかし、今では、これらの前提条件が2つとも崩れています。

 この賃金形態の恩恵に預かっている既得権者が存在するからこそ、時代に適合しない不合理な賃金形態であってもそれをなかなか止めることができないのです。時間外労働の上限規制や高プロに対し、ひたすらネガティブキャンペーンを張っている人たちは、間違いなく赤色で示した部類に属すると思って差し支え得ないでしょう。

既得権者が旧態依然とした慣例に固執し破滅を導いた典型的な例

 年功序列賃金制は、日本型雇用慣行と呼ばれる旧態依然とした慣例の根幹を形成しています。ところが、過去にも、旧態依然とした慣例に固執したあまり、それがやがて破滅へと導いていった例がこの日本に存在します。

 太平洋戦争における日本の敗戦です。とりわけマリアナ沖海戦はそれが最も象徴的な形として現れた戦いとして語り継がれています。

マリアナ沖海戦とは

 昭和18年9月、旧日本軍は、太平洋戦線での敗退が相次いだため、絶対国防圏という防衛線を張りました。絶対国防圏の最大の要とされていたのが、マリアナ諸島南端の島、サイパン島です。

 サイパン島が陥落すれば、B29による本土襲撃は避けられず、日本の敗戦が決定的になることは明らかでした。このような状況の中、アメリカ海軍と日本海軍とがマリアナ諸島沖で戦ったのが、マリアナ沖海戦です。

 当時の日本海軍軍令部の上層部は、日清・日露戦争を経て、艦隊決戦主義という成功体験に基づき出世した人ばかりです。しかし、艦隊決戦主義は、ミッドウェー海戦の敗退により戦術としてはすでに破綻していました。ところが、日本海軍の上層部は、この戦術から容易に脱却できず、マリアナ沖海戦でも同じ手法を用いて戦いに挑みました。

 艦隊決戦主義とは、艦隊による先制集中攻撃を旨とする戦術で、日清・日露戦争時にはこれが有効に作用しました。ところが、マリアナ沖海戦では、高性能レーダーやVT信管などアメリカ軍が幾重にも張り巡らせた防御策によって、日本軍の攻撃部隊は壊滅的なダメージを受けました。一方、日本の艦船部隊は防御策を全く軽視していました。このため、アメリカ攻撃部隊による攻撃にも全く歯が立ちませんでした。

 これにより、日本が長きに渡りその威信を誇っていた海軍連合艦隊は壊滅し、その後のB29による日本本土襲撃へと繋がっていったわけです。

 詳しくは、下記記事を参照ください。 

www.mesoscopical.com

まとめ

 江戸時代のように国を閉ざし、国内だけで経済活動を展開しているのであれば話は別ですが、現在はそういうわけにもいきません。

 太平洋戦争では、日清・日露戦争時にたまたまうまくいった戦術で戦果を挙げ出世した一部の既得権者が、もはや通用しないその戦術から脱却することができませんでした。それが、民間人をも危険の渦の中に巻き込み、やがて破滅的な事態を引き起こしました。

 現代でも、高度経済成長期にたまたまうまくいった日本型雇用のもとで出世した一部の既得権者が、もはや通用しない雇用慣行から脱却することができていません。

 それが、全ての労働者を巻き込み、やがて破滅的な事態を引き起こしてしまうであろうことは容易に推察できます。