はじめに
毎年、この時期になると太平洋戦争関連のドキュメンタリー番組が放送されます。今年も、NHKスペシャルにおいて連夜放送されました。特に、今年の終戦記念日に放送された「戦慄の記録 インパール」は反響が大きかったと思います。視聴者の多くは、無謀な作戦指揮の下で無残に亡くなっていった日本兵の無念さに思いを馳せつつ、旧日本軍の体質が、現代のブラック企業の経営体質にも受け継がれているのではないかと感じたのではないでしょうか。
そこで今回は、インパール作戦の詳細を紹介し、ブラック企業問題について考察します。参照元は、平成5年6月放送『NHKスペシャル ドキュメント太平洋戦争 責任なき戦場~ビルマ・インパール~』です。
太平洋戦争の中でもっとも無謀な戦いインパール作戦とは
インパール作戦は、太平洋戦争において最も無謀な計画に基づいて決行された戦いと言われています。以下、時系列に基づいて 、インパール作戦が決行された背景や経緯・作戦計画の中身・結果について考えます。
インパール作戦の発案者は誰か
太平洋戦争開戦間もなくの昭和17年1月、日本軍はイギリス領ビルマに侵攻し、3月首都ラングーンを占領。5月、ビルマ全土を制圧しました。これに対し連合軍は、ビルマ奪還を計画。そこで日本軍は、防御を固めるというより、連合軍の拠点である隣国インドの都市インパールを攻略する計画を打ち立てました。
この作戦を発案したのは、ビルマ方面軍第15軍司令官 牟田口廉也中将です。
牟田口司令官の作戦構想
牟田口司令官の作戦構想は次のようなものでした。3個師団で部隊を編成し、そのうち2個師団は直接インパールに進軍し、残り1師団はインパール北部の街コヒマに一旦進軍させ、後方から進撃するというものでした。
専門的知見に基づく部下の意見も封じ込められる
牟田口司令官の直属の部下、小畑信良参謀長は、陸軍の中でも数少ない兵站の専門家でした。小畑参謀長は、兵站の観点から、食料や弾薬の輸送が困難として強硬にインパール作戦に反対しました。
小畑参謀長が作戦に反対した根拠は次の通りです。
- インパール作戦に必要な補給物資は1万5000トンと算出。しかし、第15軍が保有する実際の輸送能力はその10分の1しかなかった。
- 補給ルートに問題があった。首都ラングーンから、第15軍司令部まで物資を運ぶ鉄道は1本だけしかなかった。しかも、司令部からインパールへの道も1本しかなく補給ルートの観点からも輸送能力が脆弱であった。
しかし、この冷静かつ客観的な分析も、牟田口司令官から作戦に消極的だと叱責され、小畑参謀長は、着任僅か1か月半で更迭されました。
ラングーン作戦会議でのやり取り
昭和18年6月に第15軍が起案したインパール作戦を審議するため、上級組織であるビルマ方面軍・南方軍・大本営からそれぞれ参謀が出席し、ラングーンで作戦会議が開かれました。この席で、インパール作戦について、上級組織全てから反対意見が述べられました。
ビルマ方面軍中(なか)参謀長:後方からの支援に心配なきよう3個師団の配置を考え直すべき。
南方軍稲田総参謀副長:補給を軽視したこの作戦構想は危険性が高い。
大本営真田作戦課長:無茶苦茶な作戦案だという感想を抱いた。
一方、そのころ太平洋戦線では、日本軍はガダルカナル島撤退、アッツ島敗退など、戦況が悪化していました。悪化する戦況を打開するために、東条英機首相は、ビルマ戦線での局面打開に前のめりになっていきました。これにより、大本営参謀たちには、インパール作戦に反対できない空気が醸し出されるようになっていました。
インパール作戦の最終審議そして作戦発令へ
昭和18年12月、第15軍司令部においてインパール作戦の最終計画案が審議されました。しかし、最終計画案と言っても相変わらず補給を度外視し、しかも3週間以内という短期間にインパールを攻め落とすというものでした。
審議では、次のようなやり取りがなされました。
牟田口司令官:補給について心配することは誤りである。
ビルマ方面軍中参謀長:この作戦構想はいかにも危険性が高い。再考の余地はないか?
牟田口司令官:今回ほど準備を周到にやった戦は、かつてない。
ビルマ方面軍中参謀長:「…」
南方軍今岡参謀 敵の抵抗にあって師団の突進が停滞することも懸念すべきである。
しかし、今岡参謀は戦後、この意見は強硬に抑え込まれてしまったと語っています。
結局、この審議の責任者、綾部総参謀副長は作戦の推進を決意。その後、ビルマ方面軍河辺司令官から南方軍寺内総司令官へと次々と上級組織責任者による認可が下りていきました。
しかし、大本営では、作戦部長に就任していた真田作戦部長が再度慎重論を述べました。「自動車も飛行機もない状態では絶対に反対である」と。このとき、杉山参謀総長が、「寺内さんのたっての希望だから何とかやらしてやってくれ」と真田作戦部長に翻意を促し、真田作戦部長もやむなく従ってしまいました。
そして、杉山参謀総長は作戦を認可し、昭和19年1月7日、インパール作戦の発令に至りました。
兵站を度外視する無謀な作戦が強行された背景には何があったのか
これについては、精神論重視の軍事教育が背景にあったと考えられます。
陸軍士官学校では補給について教える時間がかなり限られていました。陸軍の作戦要務令によると、「補給ノ圓滑ハ必ずシモ常ニ之ヲ望ムベカラズ」(補給を当てにせず精神力で難局を打開すること)という記述が見られます。
陸軍大学校でも、兵站を担当する者はわずかしかいませんでした。科学的な合理性よりも精神力でカバーしようとする軍人教育が、無謀な作戦の遂行へと導いていったのです。
すぐさま頓挫したジンギスカン計画
インパール作戦発令後、牟田口司令官は、補給なき作戦を補うためにさまざまな方策を命じました。
その1つが、ジャングルの野草を食べることでした。「日本人はもともと草食動物である。周囲の山はこれだけ青々としているから食べるものに困ることは無い」と、牟田口司令官は兵士たちに訓示しました。
また、現地の農民から牛や羊を調達せよという命令も下りました。物資運搬の用に供するほか、目的地に着いたら食料にするという計画でした。牟田口司令官はこれをジンギスカン計画と名付けました。
しかし、前線に赴く師団長たちはこの計画に納得しませんでした。特に、第31師団佐藤幸徳師団長は作戦が頓挫し途中で食料・弾薬が尽きることを懸念していました。
そこで、佐藤師団長は第15軍の補給担当参謀に次の2点を約束させました。
- 作戦開始1週間後には、1日10トンの食料・弾薬などを補給すること。
- 50日後からは十分量を常続補給すること。
昭和19年3月8日、日本軍は行軍を開始し、チンドウィン河を渡っていきました。しかし、牛は、河を渡る際、半数が溺死しました。
山岳地帯では道幅は狭くなり、トラックの通れる道は途絶え、分解して運ばなければなりませんでした。
さらに兵士は3週間分の食料・弾薬など40キロを超える荷物を背負わなければなりませんでした。せっかく河を渡った牛も、過酷な行軍に疲れ果て、座り込んでしまったり、無理やり歩かせたため谷底に落ちる牛が続出しました。結局、戦闘が始まる前に、全ての牛を放棄せざるを得ませんでした。こうして、ジンギスカン計画は失敗に終わりました。
佐藤師団長と牟田口司令官との打電の応酬
佐藤師団長率いる第31師団は、それでも何とか山越えをしコヒマに到着しました。しかし、5月末になると、現地では雨季が到来し、兵士たちはマラリアや赤痢などに侵され、飢えは極限状態に達していました。
現地から生還した本田孝太郎少尉によると、「部下100人の一日分の食料が手のひら一杯くらいの米であった。1人1日5粒の米粒で食料のありがたみを噛みしめていた。」といいます。
このような有様を目の当たりにし、佐藤師団長は「第15軍の補給に関する命令は出鱈目」と第15軍司令部に打電しました。しかし、第15軍司令部にいた中井悟四郎中尉によると、牟田口司令官は、佐藤師団長の電報を泣き言と言い放ち、「食わず飲まず・弾が無くても戦うべきだ」と佐藤師団長に打電したといいいます。
以下、佐藤師団長と牟田口司令官による電報のやり取りを記します。
佐藤師団長5月25日打電:
師団は今や糧絶え、山砲および歩兵・銃火器・弾薬悉く消耗するに至れるを以て遅くとも6月1日にはコヒマを撤退し補給を受けうる地点まで移動せんとす
牟田口司令官5月31日打電:
貴師団が補給の困難を理由にコヒマを放棄せんとするは了解に苦しむところなり
なお10日間現体制を確保されたし(略)
佐藤師団長5月31日打電:
この重要方面に軍参謀をも派遣し在らざるを以て補給皆無・傷病者続出の実情を把握しおらざるもののごとし
状況に依りては、師団長独断処置する場合あるを承知せられたし
そして翌日6月1日、佐藤師団長は、独断で第31師団に撤退を命じました。師団長が無断撤退する事態は、日本陸軍始まって以来のことでした。
インパール作戦中止へ
戦後、連合軍が牟田口司令官を尋問した際、「インパール作戦が失敗したとわかったのは4月の終わりだった」という供述が尋問調書に記されています。すなわち、軍上層部は、失敗だとわかっていながら、全軍撤退命令を発令せずにしばらくのあいだ手をこまねいたことになります。
そして、7月1日になってやっと東条英機首相によりインパール作戦中止の命令が下されました。
このようにして、インパール作戦によって戦死者3万人、傷病者4万人という多大の犠牲が払われました。しかも、戦死者の実に6割が、作戦中止後の撤退中に亡くなるというものでした。
インパール作戦終了後も無責任な軍の上層部
インパール作戦に関わった陸軍上層部の責任が問われることはほとんどありませんでした。
作戦終了後の陸軍首脳部の去就は次の通りです。
- 杉山参謀総長☞陸軍大臣に栄転
- 南方軍総司令官寺内元帥☞終戦まで留任
- ビルマ方面総司令官河辺中将☞昭和20年3月大将に昇進
- 牟田口中将☞予科士官学校校長に任命される
一方、食料補給のため独断で師団を撤退させた佐藤幸徳中将は終戦まで軍の閑職を転々としました。
佐藤中将は軍法会議にかけられることを覚悟し、法廷で軍の責任を糾弾するつもりでした。しかし、陸軍は軍の中枢まで責任が及ぶことを回避するために、佐藤中将を軍法会議にかけませんでした。
このようにして、陸軍は責任の所在を曖昧にしたまま、組織の防衛を図りました。
権力を持った一握りの指導部の政治的な思惑や野心が独り歩きして、冷静で客観的な分析に基づく反対意見を封じ込め、それがやがて組織全体の意思として決定されてしまったことが悲劇の発端です。そして、その犠牲は、最前線で戦った兵士たちに集中していきました。
インパール作戦の教訓からブラック企業について考える
インパール作戦の悲劇は、我々に様々な教訓を残しています。これらの教訓はブラック企業を考える上でも非常に重要です。以下、ブラック企業の特徴を挙げ、インパール作戦から得られる教訓と対比させます。
ブラック企業の特徴1:組織の意向に反したというだけで、組織に貢献した人であっても認めない。
第31師団師団長の佐藤幸徳中将は、司令部の意向に反し、独断で、撤退を命令しました。この迅速な決断により、多くの兵士の命が救われたといいます。読売新聞によると、彼の決断で救われた兵士の命は1万人を超えると言われています。
これだけの数の兵士の命を救ったのだから、それだけで組織に多大な貢献をしたと言えますが、上官の命令に背いたというその一点のみで閑職に追いやられました。
「上司の命令に背いてでも信念を貫き、結果として多大な利益に結び付いたけれどもそれを決して評価しない」こういうブラック企業って存在しませんか?
ブラック企業の特徴2:不採算事業をなかなか手放せない。
「牟田口司令官は4月終わりごろには、作戦の失敗を実感していた」と連合国の尋問調書にあります。しかし、すぐさま全軍撤退命令を下すことはありませんでした。実際にインパール作戦の中止が発令されたのは、それより2か月以上も後の、7月1日です。その間に、多くの兵士が飢えと病気で亡くなっていきました。
現代でも、明らかに不採算事業とわかっていながら、それをなかなか手放せない、あるいは撤退の判断が下せない企業って存在しませんか。最近では、原子力事業をなかなか手放せなかった東芝が典型的な例です。これにより、東芝は債務超過に陥りました。
これに対しパナソニックは、迅速に不採算事業を切り離すことで経営状態を回復しています。
ブラック企業の特徴3:明らかに生産性の低いことでも強制する。
インパール作戦では、兵站を疎かにし、代わって牛などの動物を連れて行ったといいます。しかし、河を渡る際に半分が溺死し、河を渡ったとしてもほとんどが崖から転落したといいます。
そもそも牛は標高2000メートル級の山岳地帯に生息していた動物ではないことを鑑みれば、こうなることはわかっていたはずです。一方、イギリス軍は山岳地帯の輸送に適したラバを用いていたといいます。
また、最初はトラック輸送が可能であったものの、途中から道幅が狭くなり、トラックを分解し、人力でトラックを運搬したといいます。つまり、運搬のために使うべきものを運搬していました。
企業でも、明らかに生産性の低い事でも、上司の命令とあれば誰も異を唱えることができず、これに応じさせられていることはないでしょうか。これも、ブラック企業の類です。
ブラック企業の特徴4:だれも失敗の責任を取らない。
インパール作戦が中止になっても、それを認可した軍上層部は、誰も責任を取ろうとせず責任の所在を曖昧にしました。その後、出世した上層部すらいます。こういった体質は、現代の企業においても脈々と受け継がれていないでしょうか。
例えば、東日本大震災が発生し原子力発電所が爆発しましたが、その責任の所在はどこへ行ってしまったのでしょうか?
ブラック企業の特徴5:部下が冷静かつ客観的な分析のもとで導き出した正しい意見を、上司がひねりつぶしてしまう。
牟田口司令官の直属の部下、小畑信良参謀長は、兵站の専門家であり、客観的分析から、食料や弾薬の輸送が困難と結論付けました。しかし、牟田口司令官は、この結論が意に反すると見るや、優位性を背景に、小畑参謀長を更迭してしまいました。
部下であっても、その道の専門家であればその意見に真摯に耳を傾けるべきです。
企業でも、ワンマン経営が罷り通っていて、例え正しい分析により導き出した客観的データであっても、自分より職位が下というだけでひねりつぶしているケースはないでしょうか。
ブラック企業の特徴6:生理的欲求を精神力でカバーしろと言い出したら真正ブラック。
佐藤師団長から「食料・武器・弾薬が尽き戦闘の続行が不可能」との電報を受けた際、牟田口司令官は、それを泣き言と言い放ち、食わず飲まず・弾が無くても戦うべきと言っていたことを側近が語っています。しかしながら、食欲を満たしたいというのは人間の最も根源的な生理的欲求であり、それが満たされなければ戦闘能力が低下することは自明の理です。
飽食の現代において、さすがに食欲が満たされないということはありませんが、睡眠欲が満たされないほどの長時間労働を強制するブラック企業が後を絶ちません。睡眠欲も生理的欲求の一つであるため、決して精神力でカバーすることはできません。
「泣き言をいうな」とか「根性が足らん」などと、精神論を前面に押し出し始めたら、その企業は十中八九ブラックと言えるでしょう。
まとめ
以上のように、さまざまな観点から、旧日本軍とブラック企業との間に類似性を見出すことができます。
インパール作戦で、ジャングルの中、無念の死を遂げた多くの日本兵は、ブラック企業の現状について、「ジャングルと違い逃げられる環境にあるのだから早く逃げてくれ」と私たちに語りかけてくれているのかもしれません。