はじめに
そもそも事業所が一つしかなければ、転勤という概念がありません。職種については、病院の検査技師・看護師・大学教員のように特殊な技術・技能・資格を有する者は、採用時の職種限定の合意が認められる場合があります。したがって、事業所が一つしか無い大学の教授であれば定年まで同一職種かつ同じ勤務地で就業し続けることができるでしょう。
しかし、複数の事業所を有する大企業において総合職として入社した場合は話が違ってきます。このような場合はジョブローテーションが前提となっており、通常、職務内容や勤務地を限定した特約付きの労働契約を締結しません。したがって、正社員として入社する以上、使用者からの職務内容や勤務地の度重なる変更要請にも従わなければならないようになっているのです。
正社員の勤務地や業務内容を無限定とする働き方は、これまでいくつかの判例の積み重ねによって、次第に形成されてきました。そこで、本記事では、正社員が転勤命令を拒否した場合いったいどうなるのかについて考えてみたいと思います。
東亜ペイント事件
配転とは、職務内容の変更及び転勤の双方を含む概念です。このうち、転勤をめぐる有名な判例に、東亜ペイント事件判決(最二小判昭61.7.14)があります。下記に、この事件のあらすじ・判決主文・判決理由要旨を示します。
事件のあらすじ
- 上告会社は、全国に十数か所事業所を有する会社である。
- 上告会社と組合との労働協約は「会社は、業務の都合により組合員に転勤、配置転換を命ずることができる。」と定め、また、上告会社の就業規則は「業務上の都合により社員に異動を命ずることがある。この場合には正当な理由なしに拒むことは出来ない。」と定めており、実際に出向、転勤等が頻繁に行われていた。
- 労働契約成立時に、被上告人と上告会社との間で勤務地を限定する旨の合意はなされなかった。
- 上告会社は、神戸営業所勤務の被上告人に対し広島営業所への転勤を内示したが、被上告人はこれを拒否した。
- その後、上告会社は、被上告人に対し名古屋営業所への転勤を内示したところ、被上告人はこれも拒否した。
- 上告会社は、止む無く被上告人の同意が得られないまま、被上告人に対し、名古屋営業所勤務を命ずる旨の本件転勤命令を発令した。
- しかし、被上告人はこれに応じず、名古屋営業所へ赴任しなかった。
- そこで、会社は、就業規則所定の懲戒事由に該当するとして、被上告人を懲戒解雇した。
判決主文
原判決中上告人敗訴部分を破棄する。
前項の部分につき本件を大阪高等裁判所に差し戻す。
⇒被上告人(労働者側)敗訴
判決理由要旨
- 当該転勤命令が他の不当な動機・目的をもってなされたものであるとき若しくは労働者に対し通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものであるとき等、特段の事情の存する場合でない限りは、当該転勤命令は権利の濫用になるものではないというべきである。
- 業務上の必要性についても、当該転勤先への異動が余人をもっては容易に替え難いといった高度の必要性に限定することは相当でなく、労働力の適正配置、業務の能率増進、労働者の能力開発、勤務意欲の高揚、業務運営の円滑化など企業の合理的運営に寄与する点が認められる限りは、業務上の必要性の存在を肯定すべきである。
- 本件についてこれをみるに、転勤命令には業務上の必要性が優に存したものということができる。
- そして、転勤が被上告人に与える家庭生活上の不利益は、転勤に伴い通常甘受すべき程度のものというべきである。
- したがって本件転勤命令は権利の濫用に当たらないと解するのが相当である。
判決内容を見ると、上告会社では労働協約や就業規則に「配転を命ずることができる」旨の定めがあり、実際に出向転勤等が頻繁に行われていたとあります。また、「労働契約成立時に勤務地を限定する旨の合意はなされなかった」とあります。すなわち、労働協約や就業規則において配転命令の根拠が示されており、労働契約成立時に勤務地を限定する旨の合意がなされていなければ、転勤を断った場合懲戒解雇の対象となる可能性が高くなります。
正社員という雇用形態においては通常、労働契約成立時に職務内容や勤務地を限定する旨の特約を付けません。したがって、正社員が使用者からの転勤命令を拒否すれば、当該命令が権利濫用に当たらない限り、懲戒解雇の対象となるのです。
転勤命令が権利濫用に当たる場合
判決文では、転勤命令の業務上の必要性について、「余人をもっては容易に替え難いといった高度の必要性に限定されるものではない」としていますが、次の2点に限っては権利濫用に当たり無効と定めています。
- 不当な動機・目的をもってなされたものであるとき
- 通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものであるとき
1不当な動機・目的とは
1については、
- 退職に追い込むために発令された転勤
- 社長の経営方針に批判的な労働者を本社から排除する意図で行われた転勤
があります。しかし、本当にそういう意図でなされたのかどうかを労働者側が主張・立証する必要があります。
2通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものとは
どのような場合が通常甘受すべき程度を著しく超える不利益と判断されるのか、例をいくつか示します
例1:
高齢の母と共働きの妻と2歳児を抱えたまま単身赴任せざるをえない場合
⇒不利益に当たらない
例2:
転勤によって通勤時間が片道約1時間長くなり、保育園に預けている子供の送迎等で支障が生じる場合
⇒不利益に当たらない
例3:
労働者が転勤すると病気の家族を介護・看護できなくなる場合
⇒不利益に当たる
権利濫用まとめ
すなわち、
- 転勤命令が労働者を意図的に排除する目的でなされたものと主張・立証できる場合
- 当該転勤命令によって病気の家族を介護・看護できなくなる場合
の2点を除けば、長期雇用を前提とした正社員が転勤命令を断れば、懲戒解雇される可能性が高くなるのです。
職種の変更
職種の変更をめぐる裁判例は多々(日産自動車村山工場事件 最一小判平元.12.7など)あります。長期雇用を前提として採用された労働者(いわゆる正社員)は、同一の仕事に長年継続して従事してきたという事実のみでは職種限定の合意が成立しているとは認められにくいという傾向があります。ただし、転勤命令の場合と同様に、職種の変更命令権の行使についても権利濫用の制約は及びます。
まとめ
東亜ペイント事件の発端は、被上告人が広島営業所への転勤を断ったことに始まります。そこで、会社は名古屋営業所の従業員を広島営業所へ転勤させ、代わりに被上告人を名古屋営業所へ転勤させようとしたところ、被上告人はこれも断りました。
どこかで応援要請や欠員が生じた場合、内部労働市場の成員たる正社員が転勤命令を断っては、円滑な雇用調整が図れるはずもありません。1つの会社で長期雇用が保障される一方で、転勤命令も受け入れなくても良いというのは都合が良すぎるのです。職種の変更についてもこれと同じです。以上のように、正社員の勤務地や職種を無限定とする働き方は判例の積み重ねによって形成されてきたのです。
ところで、東亜ペイント事件の最高裁判決が出されたのは1986年です。ちょうど同じころの1980年代の半ばから、核家族をも分断する単身赴任が社会問題になり始めた頃でした。ところで皆さんは次のような言葉を聞いたことがあるでしょうか。
亭主元気で留守がいい
大日本除虫菊株式会社のタンスニゴンのCMキャッチコピーです。1986年の流行語