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月80時間超の時間外労働が過労死ラインに設定されている医学的根拠

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はじめに

厚生労働省の通達(基発第1063号)は、脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。)の認定基準を定めています。

このうち、長時間労働と業務起因性との関係について、

発症前1か月間におおむね100時間又は発症前2か月間ないし6か月間にわたって、1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働が認められる場合は、業務と発症との関連性が強いと評価できること

と定めています。

これがいわゆる過労死ラインと呼ばれているものです。

過労死ラインは、もちろん、何の根拠もなく規定されたわけではなく、様々な医学的根拠に基づいて規定されています。

その医学的根拠とは?

長時間労働が健康に及ぼす影響については、さまざまな先行研究がなされています。

過労死ラインにおける「80時間」という時間外労働時間数は、疫学における複数の先行研究に基づいて設定されたものです。

同認定基準の改定に携わった和田攻教授(東京大学名誉教授)は、労働時間数と健康問題との関係について、日本国内の4つの研究を紹介しています。

今回は、それらを含む、研究のいくつかを紹介します。

疫学研究1:内山ら(1992 年)

  • 降圧剤服薬者のうちの50歳代の男性労働者899人を追跡調査(平均 2.8 年)し、長時間労働による脳・心臓疾患発症のリスクを検証
  • 相対リスク定量化方法:多変量解析によるハザード比(脳・心臓疾患発症の相対的危険度)を算出
  • 1 日 7 時間から10時間の拘束と比較して、1日11時間以上拘束される長時間労働では、そのリスクが2.7倍と有意に高い値を示した

疫学研究2:Sokejima and Kagamimori (1998)

  • 急性心筋梗塞を発症させた30歳から69歳までの男性患者195人(平均年齢55.5歳)と、年齢・職業をマッチさせた対照群331人(心筋梗塞を有さない男性)を対象として症例対照研究を行った
  • その結果、1日7時間から10時間の労働と比較して、1日11時間以上の労働では心筋梗塞発症のリスクが2.9倍と有意に高まった

疫学研究3:Liu et al. (2002)

  • 急性心筋梗塞の男性患者260人(40歳から79歳)と、年齢・居住地をマッチさせた対照群445人(心筋梗塞を有さない男性)を対象として同様の症例対照研究を行った
  • その結果、1週間当たり40時間以下の労働と比較して、週労働時間61時間以上では心筋梗塞発症のリスクが1.9 倍と有意に高まることを観測した

これら3つの研究に共通しているのは、1週間の労働時間が「55時間-60時間以上」を超える場合には、脳・心臓疾患のリスクが高まることを疫学的に示していることです。

ところで、労働基準法32条によると、週法定労働時間は40時間と定められています。これを超える労働を、時間外労働と言います。

すなわち、月80(=4×(60-40))時間超の時間外労働によって脳・心臓疾患の発症リスクが高くなることが疫学的な研究によって立証されました。

疫学研究4:睡眠時間と健康との関係

平成16年度版の厚生労働白書では、睡眠時間と健康問題について多くの先行研究を整理し、次の通りまとめています。

  • 睡眠時間6時間未満☞狭心症や心筋梗塞の有病率が上昇
  • 睡眠時間5時間以下☞脳・心臓疾患の発症率が上昇
  • 睡眠時間4時間以下☞冠動脈性心疾患による死亡率が睡眠時間7時間以上8時間未満の者の約2倍

このように、睡眠時間1日4~6時間以下の睡眠不足状態が長期間にわたると脳・心臓疾患の有病率や死亡率が高まることがわかっています。

長時間労働が健康を害するとわかっていながらなぜそれに至るのか?

伝統的な経済学の理論から言って、企業は利潤を最大化するため、個人は効用を最大化するために、労働時間は自由に選択されるべきものと考えられてきました。

本来は市場原理によって決定されるべき労働時間等について、政府が介入してしまうと、労働資源配分に歪みがもたらされ、全体として非効率が生じてしまいます。

しかしながら、これを完全に市場原理に委ねてしまうと、無制限の労働時間が正当化されてしまいます。実際に、現行法制下では、時間外・休日労働協定に特別条項を付した上、繁忙期という要件を満たせば、時間外労働を無制限に延長することができます。

昨今の労働需給の不均衡および今後見込まれる生産年齢人口比率の急激な減少を鑑みれば、これでは問題があり過ぎます。

そこで、政府として何らかの規制を加えることが早急に必要であろうということで始まったのが、残業時間の総量規制の議論です。

非自発型長時間労働について

樋口(2010)は、政府が労働時間規制に介入する場合に正当化される条件として次の4つを挙げています。

  1. 低賃金・長時間労働が発生する場合
  2. 長時間労働が企業利潤の拡大につながる場合
  3. 労働市場が流動化しておらず、労使間の交渉が「相対(あいたい)取引」になる場合
  4. 他の労働者に「負の外部性」が発生する場合
1.低賃金・長時間労働が発生する場合

この場合は、景気後退期に労働需給バランスが崩れ、供給過多となったときに生じます。

景気後退期には賃金が低下しますが、最低限の生活費を稼ぐために長時間労働も厭わない労働者もいます。この場合、ますます供給過多となり、さらに賃金が低下するという負のスパイラルに陥ります。

いわゆるブラック企業の多くに見られる現象です。

2.長時間労働が企業利潤の拡大につながる場合

この場合は、逆に景気が上向き繁忙期が訪れたときに起こります。

繁忙期において増加した仕事量をこなすには、

  1. 人員を雇い労働者数を増やす
  2. 既存の従業員の労働時間を増やす

の2通りの方法が考えられます。

しかしながら、前者のコストより後者のコストのほうが安く済む場合はどうなるでしょうか。

その場合、企業は利潤拡大のためなるべく人を雇わずに、既存従業員に長時間労働を行わせるインセンティブが強く働きます。

3.労働市場が流動化していない場合

硬直化した労働市場においては、労働者は他企業への転職コストが高くなるために、なるべく一つの企業に留まろうとします。このような状況下で労使自治による決定のみに委ねると、いわゆる「ホールドアップ」の問題が生じます。

この場合の「ホールドアップ」とは、転職が容易ならざるという労働者にとって不利な条件に付け込んで、使用者が強大な人事権を発動しその結果長時間労働に陥るという問題です。

4.「負の外部性」が発生する場合

この場合は、職場の風土や上司と部下との人間的な関係性のもとで発生する問題です。俗に、「付き合い残業」とも言われています。

例えば、管理職たる上司が長時間労働をしており、かつ、クラッシャー型の場合、部下もそれに従わざるを得ない空気が醸成され、結果として、全体が長時間労働に陥ります。

労働生産性を低下させる大きな要因の一つとしても考えられ、「周りの人が残っていると退社しにくい職場」であると認識している人ほど、メンタルヘルス指標が有意に悪化することも示されています。(山本・黒田(2014))

上記4つのケースは、非自発型長時間労働、すなわち、嫌々ながら長時間労働に服している労働者が一定数存在していることを示しています。

したがって、このまま放置することは許されず、政府が何らかの形で介入しないと、長時間労働をさせられている労働者に深刻な健康障害が与えられる可能性があります。

自発型長時間労働について

長時間労働について、事態をさらに複雑化しているのは、労働者本人が「自発的」に長時間労働を望むケースが一定数存在するということです。

鶴(2010)は、自発型長時間労働について、以下3つの類型を挙げています。

  1. ワーカホリック型
  2. 金銭的インセンティブ型
  3. 出世願望型

ワーカホリック型とは、その名の通り、仕事が純粋に好きであり、まったく厭わず長時間労働を選択する場合です。

金銭的インセンティブ型とはいわゆる生活残業のことです。すなわち、時間外労働を増やすことにより、残業代などの現在の所得の増加を目的とした長時間労働です。

出世願望型とはその名の通り、出世欲に起因する長時間労働です。

およそ日本企業においては、成果すなわちアウトプットよりも、どれだけ労働投入をしたか、すなわちインプットに対するシグナリングが評価の対象とされ、結果として昇進に繋がっていくという傾向があります。

すなわち出世願望型は、将来の高所得の見返りを得るべく、現在は長時間労働も厭わず敢えて率先しているというケースです。

ワーカーホリック型については、仕事内容と本人の特性とのマッチングの問題であり、議論を差し挟む余地はありません。

しかし、金銭的インセンティブ型と出世願望型は大問題です。なぜなら、それが、企業の生産性を低下させる大きな要因となっているからです。

このような方々に(迷惑な)長時間労働を止めていただくためには、成果型報酬の導入も一つの解決策として考えられるでしょう。

まとめ

このように、過労死ラインとして1月80時間超の時間外労働を設定すべきことが、さまざまな疫学的研究から立証されています。

また、長時間労働に陥る要因には、大きく分けて、非自発的長時間労働と自発的長時間労働の2種類があります。

前者については、時間外労働時間の上限規制によって、一定の効果が期待できるでしょう。

後者については、本人が自発的に長時間労働を行っているために非常に難しい問題です。

しかし、自発的長時間労働の発生メカニズムを洞察すれば、それが所得向上インセンティブと結びついていることがわかります。

本人が、命の灯を犠牲にしてまでも自発的に長時間労働に服しているものを、当該本人の健康障害を懸念し、政府が強制的にそれを止めさせることはできません。

しかしながら、そのことによって労働生産性が低下し、企業経営が傾き、結果として企業自体が存在し得なくなってしまったら、元も子もありません。

使用者が、そのような行為を止めさせるべく成果に応じた賃金体系を導入しようにも、現行法制下でそれができないのは問題があり過ぎるでしょう。

政府によって、完成度の高い成果型報酬の制度を体系化することくらいは必要と思われます。

そしてそのあとは、その制度を利用するもしないもその企業の自由です。

すなわち、残業時間の総量規制と高度プロフェッショナル制度とは相矛盾しておらず、どちらも、長時間労働を止めさせるためのものなのです。

違いは、当該長時間労働が、非自発的なものか自発的なものかという一点だけです。